ユネスコ無形文化遺産に登録
あきうのたうえおどり
秋保の田植踊
Akiu no Taueodori
解説
Description
踊は太白区秋保(あきう)地区に伝えられている田植踊。秋保地区の多くの集落で行われていたが,現在は馬場・長袋・湯元の3地区で伝承されている。東北地方に伝わる田植踊の中でも,早乙女による華やかな所作が特徴的である。平成21年(2009)にユネスコ無形文化遺産に登録された。
1.湯元の田植踊
この田植踊は,「日本三名湯」の一つに数えられ,かつては「名取の御湯」と呼ばれた秋保温泉に伝わる田植踊である。伝承では,藩政時代,伊達家の入湯場が置かれた秋保温泉には,藩主などが来湯したが,この田植踊が所望されたため,本来の庭では踊らない「お座敷田植」として格式付けられていた,とされている。早乙女は牡丹の花模様をあしらった浅葱色の紋付振袖姿で,手甲をつけ花笠をかぶり,曲目によって手に持った道具を使い分ける。弥十郎は黒地に蕪紋のブッツァキをつけ,浅葱色の股引と鈴の付いた頭巾,それに丸ぐけの赤い腰帯を締め,波にうさぎが刺繍された前母衣という化粧回しをまわし,鈴振りは肩上げつきの黒地の袖なしをつける他は,弥十郎と同じ装束となる。踊りは道中囃子の笛,太鼓ではじまり,弥十郎と鈴振りが鈴と扇子を持って最初に数え歌のめでたい前口上を唱える。踊りの曲目に入ると早乙女達を呼び出し,歌上げと囃子で調子をとりながら,弥十郎と早乙女達が踊り始める。(演じられる時期と場所:5月5日 薬師堂の祭典)
2.馬場の田植踊
馬場地区は藩政時代,二口峠を通って山形県村山郡に通じる二口街道沿いの宿駅である。慶応元年(1865)正月27日に,馬場の田植踊が新川部落に招待されたという記録が残っており,当時小正月頃に各集落を交互に踊りまわって,豊作を祈願しつつ親交を深めていたことがわかる。装束は,早乙女が裾に「松に鶴」の模様をあしらった黒紋付の振袖姿で,手甲,脚絆,赤襷をつけ,頭には豆絞りの手拭いをまいた上に,牡丹の造花をつけた花笠をかぶる。弥十郎は小鈴をつけた浅葱色の投頭巾をかぶり,蕪の大紋のついたブッツァキ,長帯,股引,手甲をつけ,波に月兎の模様の前母衣という化粧回しをまわす。鈴振りは弥十郎と似ているが,前母衣,ブッツァキは用いず,蕪の紋のついた袖なしのはっぴを着る。踊りは,早乙女が横一列に並んで踊るのを基本とするが,「太鼓田植」だけは中央に置いた太鼓を左右両面から打ちながら1人ずつ交代していく。また,馬場の田植踊には「まつや」「あげや」「春駒」「鎌倉踊」等の古風で美しい余芸の踊りが今も多く残っている。
3.長袋の田植踊
秋保の長袋地区はその昔,平家の落人たちが住みついた所と言われ,町の中心地で平家一門の菩提を弔うために建てられた向泉寺には,平重盛の守本尊と言われる小松阿弥陀如来が祀られている。また,長袋の町にも幕末から昭和初年にかけて地芝居(歌舞伎)があったが,長袋をはじめ仙台城下周辺の田植踊に歌舞伎の影響が強くみられるのは,これら地芝居に出た素人役者たちが正月には田植踊の役割を担ったからである。大正初期あたりから一時中断していたが,昭和6年復活され現在まで活発な活動が続けられている。装束は,早乙女が裾に「牡丹にあやめ」の花模様をあしらった黒紋付の振袖姿で,手甲をつけ花笠をかぶる。弥十郎は浅葱色の頭巾をかぶり,赤い丸ぐけの帯,股引,紺足袋に,黒地で背に千両蕪の模様の太平袖を着て,波に月兎の模様の前母衣という化粧回しをまわし,踊りの都度,前口上を言って踊る。踊りは演目により持物を替え,一連の振りを繰り返すが,途中で客席から讃ことばが出ると,踊手一同はその場に座り,若長が返しことばをお礼として述べる。また,中入りには伊勢音頭やあいや等の余芸の踊りが演じられる。