江戸時代から明治時代にかけて開削された,塩釜湾から阿武隈川河口に至る運河
ていざんぼり
貞山堀
Teizan bori
解説
貞山堀は,塩釜湾から阿武隈川河口までの仙台湾の海岸線に沿って造られた運河である。標高は1~2mで,このうち仙台市域の面積は約471,100㎡である。大きく3時期に分けて工事が行われており,最も古い時期の区間は,仙台藩祖伊達政宗の晩年から2代忠宗の時代につくられたと推定され,阿武隈川河口から名取川河口にいたる16kmの区間で,寛文8年(1668)の仙台領内絵図(松島町博物館蔵)に記されている。この運河によって阿武隈,名取両河川を連絡し,伊具,亘理両郡から仙台への水運を開いたもので,「木曳(こびき)堀」と称した。次の時期の区間は,塩釜湾と七北田川河口付近までの8kmの区間で,寛文13年(1673)に完成した。これを「御舟入新堀」と称した。あわせて,蒲生に船溜りを設け,河岸に米蔵を建て,ここを「御蔵場」と称した。この御舟入新堀の開通に伴い,仙台北方の穀倉地帯からの年貢運送が,七北田川河口まで舟で運送することができるようになった。さらに,高瀬堀・御舟曳堀を経由して苦竹御蔵と称する米蔵までも船で運送することが可能になった。最後の時期の区間は,木曳堀と御舟入新堀の間の区間で,天保年間につくる計画があったが実行されず,実際に開削工事が実施されたのは明治時代に入ってからで,明治20年(1886)に完成した。なお,貞山堀の名称は,明治18年に最後の区間が開通した際,政宗の法号瑞巌寺殿貞山禅利大居士より貞山の法名をとって命名したことによる。後に全水路を貞山堀と称するようになり,政宗の時代に完成したものとする誤解を生じている。平成23年(2011)の東日本大震災では,貞山堀を含む沿岸部は大きな被害を受け,各種の復興事業が行われた。平成27年の復興土地区画整理事業に伴い,船溜りと御蔵跡を対象とした試掘確認調査が行われ,船溜りに関連する護岸施設の一部が確認された。御蔵跡の調査では,土坑から数十点の荷札木簡が出土し,埋蔵文化財包蔵地「蒲生御蔵跡」として新規登録された。