技術者・惣頭取 南部(八重樫)吉助の足跡
年号 西暦 南部(八重樫)吉助の足跡 年齢
寛政8年 1796 岩手県和賀郡後藤村に生まれる
文政5年 1822 十二月に,どこかで働いたという記録がある。※1 26才
文政8年〜
  文政10年

1825
1827

仙台に来て熊ヶ根(旧宮城町)で働く。この時,広瀬川および支流の氾濫より洪水があった。熊ヶ根は出水の多発する地方だったため,堤防を築く,荒れ地に用水路を引くなどの土木工事に着手した。すでに頭取もしくは小頭として小集団の仲間と働く。

29才
文政12年 1829 広瀬川上流の川崎で初の穴堰(潜穴)工事を請負,体験する。 33才
文政13年 1830

3/19 川崎潜穴の工事で13人が小屋がけ,34人が用水堰の土砂や草の根などの堆積物を"ざるかご"などで堀りあげる「ゑどり」を行う。※2  実働した延べ人数は四百数十名である。(実際には十数人が何十日か働いた惣人足数) この時の給与は一人につき白米三升,みそ十文。※3

34才
弘化元年 1844 吉助,力蔵,故郷の和賀地方で堤工事に着手。※4 48才
弘化3年 1847 福岡村で新堤築堅工事を春から行う。 51才
弘化4年 1848 10/18から四ッ谷堰の一部堀替,新潜を取付ける工事を行う。 52才
嘉永元年 1848

四ッ谷堰の改修工事は古堰を掘替,破損の大きい所は新しい穴堰(潜穴)を通していった。

52才
嘉永2年 1849 9/18 四ッ谷堰の改修工事完了する。 53才
嘉永5年 1852 福岡大堰新潜穴の工事に着手。※5 56才
嘉永6年 1853

8月から,吉助,力蔵,新渡戸傳等とともに青森県の三本木開拓の調査に入る。

57才
安政元年 1854

岩手県藤根村(現花巻市)の奥寺堰・横川目村菱内川穴堰の一部改修保繕工事を行う。

58才
安政2年 1855 青森県の青森県三本木原開拓に参加。 ※6 59才
安政6年 1859 /14 62才
※1 古文書の端が切れているため,働いた先は不明である。
※2 「ゑどり」とはところによっては,「江払い」という。春の灌水前に水下人総員で行う行事である。現在でも「江払い」は各地方で行われている。
※3 給与の内容から,広瀬川上流の作並村,新川村,熊ヶ根村の村々から請け負った工事であることが推測されます。
※4 古文書の人足数,必要経費から大規模な工事であったことが伺われます。南部吉助と水神碑にはありますが,岩手県の出身だったため,そう呼んでいたのかもしれません。本名は八重樫吉助です。力蔵という人も本名は後藤理喜蔵といい,常に吉助と行動を共にし,吉助亡き後も総頭取として働いた人です。
※5 泉区福岡字城の内にある水神碑に「潜穴堀方主立南部吉助」とあります。
※6 青森県三本木原の大原野に,よみがえりの水を十和田湖下流の奥入瀬川より上水し,二箇所の穴堰2312間(4160m),陸堰3400間(6143m)を貫流して不毛の原野に水を引いた。完成は開始から約4年の月日を経て安政6年(1859年)5月4日であった。(高橋富雄著 東北の風土と歴史 山川出版より)