年号 時代 岩切やその周辺であった出来事
10000年前 縄文時代 いわきり縄文のくらし 
いわきりは,昔から人が住みやすい所だったようです。数多くの遺跡が,残っています。(燕沢遺跡)@
紀元前300年 弥生時代 流行のお墓はどんな形?
 弥生時代後半になると,勢力を持つ一族が現れました。(こういう一族を豪族と言います。)
入生沢横穴式古墳A
千人塚古墳B
4〜7世紀 大和朝廷時代 7世紀!すでに東北開拓始まる。
 日本最初の統一政権「聖徳太子」の時代には,菅原道真が編集した。類聚国史631年に『陸奥宮城郡松島八幡・・・』とか,続日本書紀の本に地名として出てきていることから,少なくとも7世紀には,このあたりの東北開拓が始まっていたと考えられています。
710年 奈良時代 多賀城という立派な県庁が完成!
 645年大化の改新の後,奈良時代の東北地方は,陸奥国として中央政府の支配下に入りました。多賀城Cという国の役所(この時代の県庁を国府といいました。)ができ,東北地方の北の方(蝦夷と言いました。)の反乱をしずめる役割をしていました。(それを蝦夷鎮守府といいます。)1km四方に及ぶ大きな建物が何軒もあるので,おそらく岩切あたりに住んでいた人たちも労力として使われたのでしょう。土地は政府の物,人々は公民として稲・労力・布(租・庸・調といいます。)という税を納めなければならなくなったのです。
“いわきり”地名のなぞ解かれる!
 741年(天平13年)聖武天皇の命令で五穀豊穣,国家鎮護のため,国ごとに国分寺が建立されました。仙台市木ノ下にも国分寺がありますが,この土台の石が岩切の石と同じであることから“いわきり”の地名がきたという説があります。
 山崎の南上の台から,多賀城やその国分寺と同じ瓦が出てきました。(燕沢寺Dとどんな関係があるかは,なぞですが,おそらく有名な人物がいたのでしょう。
794年 平安時代  平安時代になり,政府は801年(坂上田村麻呂)は,蝦夷を征伐する将軍(それを征夷大将軍と言います。)に任命しました。彼は,岩手県(胆沢)まで征服しました。蝦夷鎮守府は,その胆沢に移しました。
七北田川を冠川(かむりがわ)と呼ぶじいちゃん
 宮城郡には,彼にまつわる伝説が多く残っています。一つは,彼が遠征の途中,七北田川に冠を落としてしまったことから,そこは冠川Eと呼ばれるようになりました。
坂上田村麻呂と阿久玉姫のうわさの関係!
 もう一つは,利府に住んでいた阿久玉との間に,千熊丸が生まれました。生まれる前に彼は刀とお金を阿久玉に渡し,もしも男の子あれば,刀を持たせ京の都によこすよう,言い残していきました。千熊丸は,沢乙の奥にある学校に1里(4キロ)以上歩いて通いました。朝日が昇るのを見て拝んだことから天拝坂Fと言うようになりました。青麻神社北200mの左手「ここより利府町」の看板があるあたりです。
 阿久玉は,もとは京の人で,父親の知り合いで多賀城の近くの
九文長者Gを頼ってきました。彼女は観音様に,悪い人に逢ったら醜い女,良い人に逢ったら美人に見えるように祈願し旅立ちしました。残り1里(4km)のところにあり,それを水鏡にして旅の汚れを落とし,化粧をしたことから,その池を鏡ヶ池(現在はありません),坂を化粧坂H(坂としてではなく地名として残っています)というようになりました。
 さて,中央政府は,天皇政治から,藤原氏の貴族政治へと移っていきます。陸奥国の国司は,朝廷から任命されても目白(代官)にまかせ,私腹を肥やしていくのです
いわきりは,観光名所の宝庫だった!
この時期,歌詞として出てくるほど,有名な場所(歌枕といいます)いまで言う観光地のような所がありました一つは途絶の橋Iです。
ー古歌ー 遠近の人ぞかよわぬ すみ渡る 月にとたえの 橋なかりけり
もう1つは,
十符の菅Jです。敷物や笠の材料になる良質の長い菅があった場所です。江戸時代,奥の細道の紀行文を書いた松雄芭蕉の古歌にも出てきます。
ー古歌ー みちのくの十符の菅ごも七符には君を寝かせて我三符にねむ
岩切歴史
その1