歩 み
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学校沿革の概要
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校 章
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昭和50年3月1日 制定 校章の制定に当たっては、子供たちはもちろん、広く地域の人々、本校教職員からも そのデザインを募集し、集まった数は約400点。 いずれも優れた作品であったが、最終的には、それら応募作品のアイディアと教職員 の意見を参考にしながら、櫻井辰祥氏(当時教頭、校歌の作曲者)が原図を引いた。 ● 三羽の燕 燕のようにそれぞれの進路に、又広い未来に向かってたくましく羽ばたく姿。 見方を変えるならば、それは子供・親・教師の三者と見ることもできよう。 ● 輪 輪に連なって心を一つにして、常に「和(輪)」をもって協力し合う姿である。 ● 小 子供たちの中心となる学校、その中には、温かくしかも厳しく見守る教師の姿を宿している。 |
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校 木
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あすなろ 翌 檜 昭和54年6月1日 制定 「あすなろ」とは、翌檜(あすなろ) すなわち「あす(明日)は檜(桧)=ヒノキになろう」 という意味に由来しているといわれている。 |
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校 歌
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仙台市立燕沢小学校校歌 作詞 富田 博 作曲 櫻井 辰祥 1. 丘の学校 つばめざわ 空がひろがる 雲がわく みどりの風に 胸はって のびる若芽の 枝に葉に たくましく 力はあふれ かおる命を 育てゆく ふるさとの 黒い土 2. 奥の細道 つばめざわ 海がひろがる 船がゆく 世界の友に 手をのべて むすぶ心の 花の輪に さわやかに 光はあふれ 高い理想を 誓いあう 燕沢小学校 昭和50年3月1日 制定 |
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学区のようす 学区と地図へ 当学区は、三代藩主綱宗公ゆかりの善應寺や蒙古の碑などの所在地として、 広く市民に知られています。多賀城・岩切などとの地理的関係やこの付近に見られる 遺跡などから、かなり古くから開けた地域といえます。本校は地域住民の厚い念願のもと、 昭和49年、旧小鶴城址に隣接する小高い丘に開校されました。近年、急速な宅地開発が なされてきましたが、農地や林が点在し、周辺の新しい団地でも野鳥の声が聞かれるなど 新旧調和のとれた自然環境の中にあります。 歴代のPTA会長さん始め、地域の方々は学校運営に極めて協力的で、学校行事などには いつも揃って参加していただいております。開校以来、自然環境を生かした緑化活動、 学童農園や水田での体験学習にも全面的に協力をいただいております。 |
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燕沢について
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燕沢の地名の由来 燕沢という地名がついた由来として三つあげられます。 @奈良末期から平安時代の前期(約千百年位前)燕沢上の台に、燕沢寺という古いお寺が あったので、この寺の名前から燕沢という名がついたという説。 A今から七百年程前の弘安四年(1281)の夏、十万の蒙古の大群が日本を攻略しようとして、 九州の博多にやって来ました。ところがその時、暴風雨(台風)がやってきて殆んどの蒙古軍が 西海に沈んでしまいました。生き残った一人の蒙古兵が仙台の地、燕沢まで辿りつき疲労のため 路傍に倒れてしまいました。通りかかった僧がこれを哀れみ、色々と尋ねたが言葉が通じませんでしたので 寺に伴いかくまっていました。しかし、いつしか鎌倉幕府の知るところとなったため、首をはねて鎌倉に 差し出しました。首をはねた時、血が周りの沢に飛び散ったのでその沢一帯を「ちばね沢」というようになり、 それが訛って「つばめ沢」になったという説。 Bこのあたりは大変陽あたりがよく、沢や沼が多かったので色々の虫が多く、これを求めて燕が集まって 来たので、燕のたくさんいる沢が多いので燕沢という名前がついたという説。 |