紀行文「おくのほそ道」において松尾芭蕉等が訪れ,よすがを感じた名所地
おくのほそみちのふうけいち
おくのほそ道の風景地
Okunohosomichi no Fukeichi
解説
Description
全国で18ヵ所が名勝「おくのほそ道の風景地」として指定されている。仙台市内では,『つゝじが岡及び天神の御社』と『木の下及び薬師堂』が指定されている。
『おくのほそ道』に見られる,関係のある部分は以下のとおりである。
『おくのほそ道』五月四日仙台部分(抜粋)
名取川を渡りて仙台に入る。あやめ葺く日なり。旅宿を求めて,四五日逗留す。ここに画工(ぐわこう)加右衛門(かえもん)といふ者あり。いささか心ある者と聞きて,知る人になる。この者,年ごろ定かならぬ名所を考へ置き侍ればとて,一日(ひとひ)案内す。宮城野(みやぎの)の萩茂り合ひて,秋の気色思ひやらるる。玉田・横野,躑躅(つつじ)が岡はあせび咲く頃なり。日影も漏らぬ松の林に入りて,ここを木の下といふとぞ。昔もかく露深ければこそ,「みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて,その日は暮れぬ。なほ,松島・塩竈(しほがま)の所々,画(え)に書きて贈る。かつ,紺(こん)の染緒(そめを)付けたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ,風流のしれ者,ここに至りてその実を顕す。
あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
かの画図(えづ)に任せてたどり行けば,奥の細道の山際に,十符(とう)の菅(すげ)あり。今も年々十符(とう)の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守に献ずといへり。
『つゝじが岡及び天神の御社』
「つゝじが岡」は,「とりつなげ玉田横野のはなれ駒つつじの岡にあせみ咲くなり」(源俊頼)など多くの歌に詠まれ,歌枕として有名であった。現在の「つゝじが岡」は榴岡公園の名で知られ,芭蕉が訪れた直後に馬場の傍らに列植された桜樹の一部が伝わる。また,「つゝじが岡」の一画に位置し,「天神の御社」と記された榴岡天満宮の境内には,寛文7年(1651)建立の唐門,樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラ・シラカシの老樹など,芭蕉が訪れた頃の手がかりとなる景物が残るほか,その後に芭蕉を顕彰して建った数多の句碑もある。
『木の下及び薬師堂』
慶長12年(1607)に伊達政宗が再建した「薬師堂」は宮城野の先にあって,日影も漏らさぬほどに繁った「木の下」の松林とともに深い露に濡れており,「みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」(詠み人知らず)の一節を芭蕉に思い起こさせた。現在,享保4年(1719)再建の准胝観音堂の脇には,芭蕉が仙台城下の居宅を訪ねた大淀(おおよど)三千風(みちかぜ)の門弟である,万水堂(ばんすいどう)朱覚(しゅかく)が享保27年(1722)に建てた大淀三千風供養碑,駿河の俳人・山南官鼠(かんそ)による天明2年(1782)の芭蕉句碑などが残る。