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柳生和紙の歴史

生和紙がもっともさかんに作られたのは、明治の後半から大正にかけての時期で、甘いものが少なかったその時代「柳生にいくと太白(白さとう)を食わせられる」といって、近くにすむ若者たちは、あらそって手伝いに来たそうです。また、そのころの紙の生産量は、中田全村でとれるの米の生産額(せいさんがく)より多かったということです。その頃、柳生では「どこの家でもあたりまえのように紙すきを行っていたんだよ。」と地元のおばあちゃんが教えてくれました。今でも紙すきを行っていた家の庭先には、四角い大きな水槽(すいそう)のような流し場が残されています。
しかし、大正11年(1922年)に、長町に紙をたくさんに作る工場ができ、西洋紙(せいようし)などが使われるようになってからは、作るのに手間(てま)がかかる柳生和紙もたちうちできなくなりました。そのためだんだんに和紙づくりの農家もへり、昭和35年(1960年)には10戸だけとなり、おもに障子紙(しょうじがみ)などを作っていたといいます。

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●.中田の歴史写真資料集より 掲載

●和紙の原料「コウゾ」干し

●和紙の自然乾燥風景

●トロロアオイの作業(和紙をつなぐのりの役目)

●紙をすく佐藤ふみ江さん